「藤原氏加藤末葉宮名字系図を繙く」
藤原氏加藤末葉宮名字系図
-30 ○ 天御中主尊 あめのみなかぬしのみこと 國常立尊ノ御事也 -29 ○ 天八下尊 あめのやくだりのみこと 国狭槌尊御弟也
-28 ○ 天三下尊 あめのみくだりのみこと -27 ○ 天合尊 あまあいのみこと -26 ○ 天八百日尊 あめのやおひのみこと
-25 ○ 天八百萬魂尊 あめのやおよろずむすびのみこと -24 ○ 津速魂命 つはやむすびのみこと-23 ○ 市千魂命 いちちむすびのみこと
-22 ○ 居々登魂命 こごとむすびのみこと -21 ○ 天児屋根命 あめのこやねのみこと -20 ○ 天押雲命 あめのおしくものみこと
-19 ○ 天多祢伎命 あめのたねこのみこと -18 ○ 宇佐津臣命 うさつおみのみこと -17 ○ 大御食津臣命 おおみけつおみのみこと
-16 ○ 伊香津臣命 いかつおみのみこと -15 ○ 梨津臣命 なしつおみのみこと -14 ○ 神聞勝命 かむききかつのみこと
-13 ○ 久志宇賀主命 くしうがぬしのみこと-12○ 国摩大鹿嶋命 くにすりおおかしまのみこと-11○ 臣狭山命 おみのさやまのみこと
-10 ○ 跨耳命 あとみみのみこと -9 ○ 大小橋臣命 おおこはしおみのみこと -8 ○ 阿摩毘舎命 あまひさのみこと
-7 ○ 音穂臣命 おとほおみのみこと -6 ○ 阿毘大連 あびのおおむらじ -5 ○ 真人大連 もうとのおおむらじ
-4 ○ 鎌大夫 かまのおおまちきみ -3 ○ 黒田大連 くろたのおおむらじ
-2 ○ 常盤大連 ときわのおおむらじ 欽明朝(539-571)中臣姓を賜る -1 ○ 可多能祐大連 かたのさのおおむらじ
0 ○ 御食子郷 みけこのおおきみ (中臣御食子 なかとみのみけこ)(中臣美気古)
藤 原 氏
宮 名 字 由 来
(三島市役所前路上モニュメントを撮影)
(2003.7.23)
(現在 神石高原町)
横山氏由緒書部分 1213年和田合戦の頃
無止時依之建保元年和田一族其外北条え遺恨の士卒反逆し同類馳加て北条可討果巳に及一戦横山時兼同婿波多野
三郎横山五郎知時同十郎重兼一門家の子引きつれ和田に加勢す荒手を入替火を散し戦う故に北条方結城佐野曽我
中村二宮杯が陣虚し責破数百騎討取る北条方足を立兼て再三敗走す然れども北条家は将軍執権故次第に勢競て
和田一門大半敗北す横山一家郎従残り少に討死而時兼重兼親子朝比奈三郎義秀と一所に舩に取乗り安房国に落行
横山は清住辺りに知る者有れば暫爰忍居して世の転変を聞に北条家は日に月に勢い盛に庶を指して馬と云うも
大名諸侯も是に同す躰也然る上は不期変化時節難遂本望故に清住を立退き北陸通を掛り上着京城落人の浅振も
忍十目の視所十手の指所而於洛外北嵯峨辺に民間に交星霜数十暮也亦時々公家方に由緒有て大門に徘徊すと云
横山判官重忠北嵯峨に蟄居の刻備後国奴可郡久代宮家の知召す細縁も有れば慕跡而同国神石郡永野村に下着す
元来武勇の家成ば駈催宮家威光而神石半郡抜取領知す自夫属宮家幕下に重忠三子有、嫡男忠通三坂村に住居す
次男重望老父重忠と一所に永野村孖山の要害に在城す三男資忠江草村に住居す故に三子共に三坂、永野、江草の
在名を名乗り氏とす」 ( 三坂氏、永野氏、江草氏の始まり )
永野氏末裔に永野護氏(1890・7・5~1970・1・3)あり永野六兄弟の長兄、第2次岸内閣の運輸大臣に就任されました。
永野護氏の子息 永野巌雄氏(1918・3・20~1981・10・8)は広島県知事在職中(3期1962・5・29~1973・11・10)
再三横山家菩提寺 「 宝 光 寺 」(神石郡神石町永野)へ墓参されました。
( 久代息成の弟 )久代外記
( ふたえうり )
高盛公胎藏寺二備津山御花見奥宮盛忠かけ鳥を射る事
天文四年三月廿六日久代殿御花見御供の人々には荒木民部太輔田邊遠次郎藍原和泉守奥宮豊後守盛忠也其外御供の勢
上下都合百二十人御門を御出あり二の丸を通り二備津の御社へ御参詣遊ばされ少し御休息ありける内に三の谷の方より
白鳥一羽二の丸の方へ行けるを見給ひて盛忠あの鳥をと仰せられければ畏つて候とて弓をつとり丁と射かけるにねらい
少しも違はず両羽をぬいて眞中を射通せば鳥は川中へ落ち中間走り行きてとり帰りやがて御前へ差出せば大いに御感悦
あり奥宮へも当分の御褒美に扇子一対遣はされ御盃御下し給ふ也是れより直に胎藏寺櫻の場へ御幸有り御茶湯は藍原和
泉守御香は荒木民部太輔也色々御慰みあり下部にも少し連歌俳諧などし日も西山に傾きければ御帰城遊され候千代萬々
歳を唱へける。
粤に雲州富田月山城主尼子伊豫守経久と言う人あり去ぬる永正年中迄は出雲半国の主なりしかども次第に家富みて永
正三年寅十月出雲一国を賜り同四年に伯刕大仙の惡僧等を語らひ伯州半国を責めとり其勢飛龍の天を行くが如し、武威
を震ひ因伯二刕は自然と旗下に成るもの多し随い來らぬ輩あれば押寄せ一戦に踏散らし既に三ヶ国領す、其上作刕備中
も旗下になるもの有りけるに是に依て山陰道の守護をたまはり今は一族多し我意誇る事度々なり家臣諌言を演ぶといへ
ども更に用ゐず只欲心無道なれば智ある臣は是を歎き惡なる者は是を用ゐ伯親の佐々木伊豆守大勇智の者故に経久が行
状を見て災遠かるまじと歎かるれ共是非なき次第也
或る時一族並に家佐を集めて云ひけるは、此頃風聞を聞くに藝刕毛利元就周防の大内と心を合せ此経久を打つべしと
議せる由傳へ聞く憎き振舞かな此上は元就を攻め落し藝備両國を手に入れ夫れより大内を攻めべき志に依て先備後三好
之入道宗全同國西城久代高盛を討捕り兵糧の道を開き心静かに郡山を攻むべしと思也各々如何に思はるゝやと仰せらる
尼子三左衛門尉申候は高盛事今毛利の近臣にて吉川宍戸小早川の人々にも肩を並ぶる者なく智勇世に秀でたる良将也
又その臣家は数年の臣也荒木田邊藍原國頭高尾三上渡邊奥宮横山何れも大勇にして謀深し勇武近國に震ひ 其上吉田の
付人東左衛門尉政幸は先年の楠正成にも劣らぬ軍師の聞えあり又佐竹主計守は中國にて軍学名高き者也麁骨には攻め難
しと申され候
三澤刑部少輔為豊申候は久代高盛の舘より八里此方に 高野山庄蔀山の城主山内河内守源信直彼は相州鎌倉の代には
須藤刑部太輔俊道が末流にて信直は小禄故至極勢微々として世を渡ると雖も 附随ふ士には近藤紀伊守為直同大藏兵衛
為重同蔵人太輔為政工藤傳兵衛盛重同源次郎盛勝名越備中守盛治同平左衛門尉盛春白根加賀守行實同源太郎行元同權兵
衛尉行春岸多郎左衛門義信同三郎兵衛信景山代三郎光秀金屋利兵衛同善兵衛白根備中守赤木出羽佐彼等は古刑部俊道が
時より附随ふ者にて何れも勇武にして弓箭の道に名高き者共也工藤白根は軍学の達人也君御謀を回らし給ひ彼を味方に
招き其後久代を討滅ぼし給ふに何の仔細あるべからずと言上しける時に経久曰く各々軍理尤に聞え候高野山が事は先年
京都にて在番の時未だ元就も小身にて毛利小太郎と言ひて多治比七十貫を領せし時此信直と少し口論ありすでに一戦に
及ぶべき所に鳥丸中納言殿御取計にて事平和相調ふと雖も、今に信直は遺恨堪えず然れ共上を恐れ一戦には及ばざる也
尚又此度備後の國を元就領せし故は信直が心を苦しむ事深かるべし其所へ今此方より牒状を以て申遣はす程ならば早速
旗下へ参るべき事は掌をさすが如し此間牒状調置きしなり各々披見有るべしと差出さる。諸士是を拝見し明智の御大将
かなと恐入って言上す然る所に同國嶋根郡白鹿山の城主杣山越前守高里申上るは君先刻仰出られ候は周防山口大内義隆
公安芸毛利元就引合當城を責討つべき謀を成し候事にて君御憤り遊ばされし段御尤の御事に候乍併是は世の流言佞人の
讒言と相聞へ候大内義隆公當時執事職を司り候へば大平をこそ好み申せ何の遺恨有て當城へ兵儀を起こすべきや毛利も
多治比七十貫より上りて今備芸両國を領し其上備前備中にも旗下多し是全く元就が智勇にて諸士を愛し民を憐み上を敬
ひ國家大平を好むによる時を得ば日本一國も治むる者也御上の下知もなくして旗をあげ兵を動かし士民を苦しめ士卒遣
はすべき元就にあらず毛利には仁義を以て諸士を招きまさかの時は味方に頼まん事を旨とす、然るに何の遺恨ありて當
家へ弓を引事はあるべからず此義は間者を入れて御聞遊ばされ其上の事可然と存ぜられ候尚又當家静にして上を敬ひ義
を守り居候に元就義隆干戈を震ひ押寄せる事あらば當城堅固に守り伯刕の者共に後包ませて責討に何の気遣なし邪に合
戦を起す時は必ず國家を失ふもの也惡を以て國を取る時は士卒を荒し軍卒難儀に及ぶ者也其時かへり忠の者出来て災の
端となる事有り當家出雲半國を領し今又三ヶ国を領する事一は天に叶い一は御先祖よりの武功によるなり此度の儀御止
り遊ばされ可然候と理多くして諌言申上らるゝ此杣山殿は代々尼子の後見の家尚又大勇にして軍学の達人也其身尺六尺
有り力は五十人力あり武道の達人にして仁愛深き人也豫て尼子家楯鉾と言われし人なれば少しも恐れず言上あり他の大
名は経久の権威に恐れ後句続く人なし然る所尼子三左衛門尉申上げるは此度の儀計りは御賢慮あつて君も可然候先今日
何れも退去成さるべしと申さる経久甚不興の躰にて見へ候へ共杣山高里の諌言なれば苦々敷奥へ入り給ふ諸士皆杣山の
大智大勇に感じける久代責の事は止みにける。
大富山籠城評定之事
斯くて信道より尼子乱軍起る由を内々知らせ来候故早急の要件なり速に可被参と諸士にふれられける。是れに依て相集る人々に
荒木対馬守、國頭内膳、田邊、藍原、奥宮、東、渡邊、横山、佐竹、宮崎、高尾、梶、秀木、岡崎、久代、名越、宮、笹折、荒戸
野、西片、總嶋、川上、赤木、平田、浪片、久宗、宇山、川村、三上、石川、長尾、後藤、幸白、西山、草間、本宮、松尾、道城
高坂、泉、川嶋、中嶋、川崎、大江、猿渡、小野、永野、黒木、都合四十八人此者共は何れも一方の大将相勤むべき者共也
旗本に津加田河内守、深谷六郎兵衛、高尾刑部太輔、藍原藏人、荒木大和入道、國頭出羽守、石原兵左衛門、横露平馬、入江隼人
朝日備中守、佐々木右京太、平井藤兵衛、安井吉兵衛、松本源次兵衛、三浦兵太夫、明石善兵衛、奥宮文左衛門、宮九郎兵衛、同
長左衛門、久代左近、同右近、岩水出雲守、都合二十二人此勢三百余騎
御馬廻衆 奥宮藤四郎盛勝、荒木勘之助廣吉、藍原源太郎秀俊、渡邊源次郎是正、横山六三郎永次、池水代五郎時直、安井喜久衛
門房永、宮次郎兵衛俊勝、佐竹軍兵衛春義、岡崎吉三郎光元、赤木新三郎忠政、三上代八郎元光、林孫兵衛近重、高坂茂平次好房
升田伊兵衛信俊、西川半七郎吉勝、此者共世に並なき大力の勇士高盛公の御側去らぬ人々也
此人々大富山登城有る時に高盛公被迎出は此度蔀山より内々の報知あり出雲尼子当城へ押寄候事を申参りたり是に於て各々を召す
所也何れも意見承度事也田邊殿の曰く比和に出張をし難所に当り防ぐべしと被申藍原荒木油木と小鳥原に出張り防ぐべしと言上有
り若者共逆寄に押寄せ戸田月山城を乗取るべしとも言上す、案内知らぬ尼子勢なれば引受謀を以てみなごろしにせんと言上するあ
り評定区々なり重ねて高盛公の曰く各々軍理尤に相聞え候渡邊東には如何思はるゝやと御尋ね有る時東政幸言上あるは只今各々御
評定至極に候然れ共御尋に候へば愚見可申上候元来出張構へ候へば屹度勝軍仕り候へ共本城の勢不足に相成ものに候政幸が存ずる
所は先づ胎藏寺に柵を構へ奥宮殿津加田殿大将にて其外に精兵の射手三四十人総軍二三百騎に立こもり給ふに於ては二の丸へ敵を
ば近づけ討散す用意火わざを行ふ時の便あり大佐樋ノ口兜山は大和入道の居城へ備中荒戸野、西方、西山の勢を籠り候へば凡三百
餘騎はあるべし敵の胎藏寺へ押寄せる後を取切るべき用意也三ノ原に山を後に当て出張を構ふべし此大将に横山長門守、宮、赤木
宮崎此四人勢二三百騎は備へおき若し川筋を通り本丸へ忍の廻るの用意也又搦手の軍難儀の時平子に廻り敵の横合より討散らす用
意也下栗上栗には藍原殿、高尾殿大将にて御守あるべし敵将謀深き者ならば大事の所に御座候佐竹殿は予て軍学の達人に候へば本
丸に君と御一緒雲気見合せ士卒を御遣肝要に候國頭、田邊、佐々木、久代、宮、長尾の人々本丸御入りあらば勢の千二三百騎は有
るべく候其上に政幸は妻子並に弟主膳、三好、仙谷は御本丸へ可送各の籠城の節妻子舘に残しおかるゝ事は心遣に候間大富山へ御
送可然と存ずる也二の丸は大将荒木対馬守殿軍師渡邊軍勢は梶新左衛門、小野小太郎、黒木、永野、神代右の衆兵卒三百騎位はあ
るべし二の丸は大事の所に候又荒木殿の居城へは御子息荒木熊之助大将に油木三郎四郎、岡崎三郎兵衛、秀木入道全村、長者法印
此衆は当初の地理をよく知りたる人々なれば夜討の案内せらるべし松本源次兵衛、升田六郎兵衛、入江隼人此三人の衆は一組二十
五人三組山の谷岺に隠れ居り若し尼子勢城へ忍び近附時彼等を討取べき役也三河内大善殿を大将にて藤井、亀井、宇山、福光此衆
は大戸薬師寺に出張り可有候政幸は手勢引き蟻の腰に籠城して敵の気を見、変に応じ気に乗じて謀を以て夜討など千変萬化に尼子
勢駈け悩ます程ならば当所に十日と足は留めさせ申間敷と懸案ながら存居申也と言上有る、佐竹渡邊の曰く政幸陣割理に当て聞ゆ
尼子の勢幾萬押寄すとも恐るゝに足らざる所也君の大勇知の御下知を為し給ふに各々義を重く命を軽んじ忠を励むべき諸士少しも
気遣有るべからずと被存候と言上有る、御家左諸士一同政幸の明智也と申上げ此議相定まる、然る處高盛公重ねて被仰出しは此方
より物なれたる忍の者五六人遣はし富田勢の出陣の日限軍将の名、手分の次第聞繕ふの士を選び遣はすべしと仰せ有る渡邊七郎左
衛門尉進み曰く私家来に山伏二人禅僧一人持居候彼等を忍に可遣と言上せらる、田邊大隅太輔の曰く私若党にものまね上手一人又
下人にてあんまをよく取り手品の上手二人抱へおき候此度の忍に遣はし可申何れも武の道も相応に候と言上有る諸士是を聞き田邊
渡邊の才智を感じ各々宿所へ下城也
出雲富田月山の城主尼子伊豫守経久備後大富山城主久代上総守高盛を攻むる事
扨も尼子伊豫守経久近国に威を震ひ先備後国へ兵馬を出し討取るべしと予て思案思立ちけれ共杣山越前守の諌言にて力不及打捨
ておきしに杣山高里病死に依て又一つの謀を考へ一族並に家中の諸士へ申し聞かせ其上山の内信道を語らい近々備後へ出馬致すべ
き評定一決す先大将に尼子筑前守信久副将には川尻下野守氏倍相随ふ輩には野澤越中守忠友、大東織部之助光長、山口源太輔弘政
戸田三河守乗重、杣山新蔵人高光、三澤岩見守為重、佐和民部太輔近氏、垣屋三郎衛門尉、亀井次郎兵衛、三木三郎右衛門、神戸
隼人之助、池松田加賀守照政、木次伯耆前司友直、南形七郎兵衛、森惣左衛門、山中紀内此勢都合四千五百餘騎富田の月山を九月
廿三日立ち備後国に趣ける。
さても富田川打渡りしほどに風も吹かざるに大将尼子筑前守信久が旗釣り糸きれて遥川下へ落流さる。直に旗をば差替へたれども
心ある者は此度の合戦墓々しからずと思へり又搦手へ向かふ大将森田丹波守行秀、同源次兵衛行直、宇山文右衛門尉、平野出羽守
元春、倖田武蔵守行永、上石太膳太輔氏重、岡野隼人祐俊直、亀山三郎右衛門尉、大呂九右衛門、油木四郎五郎、佐見善八郎、多
久和次郎四郎、三戸屋彌五郎、米原新内、山中次郎右衛門、市旗村右衛門、長崎新吉此勢都合千二百餘騎同日に戸田少し引下り出
陣す、大手の大将尼子筑前守其日に同国阿ゆに止陣す搦手大将森内丹波守は三澤に止陣す信久の方より使者あり此方には卯の上刻
に出陣仕る間是非明後大手搦手一時に攻むべき由申遣はされ森内も此旨承知仕ると返答也信久卯の上刻の出陣也此方寅の上刻に立
て比和迄は同道にて通るべしと惣軍に觸れ給へ共一向に森内が勢此度は勇気なし此森内は俵藤太の末流にて是迄は尼子家にては勇
を震ひ因州に拾萬石領して度々の合戦に諸人恐れ鬼行秀と申程の勇士也然るに此度は此人も進まず諸勢勇まず寅の上刻出陣とふれ
られしにやうやう辰の刻出陣也丑の下刻に備後国北見原へ差陣す先陣の通りし事道行く人に尋ねられければ最早先陣は三里餘りの
ぶべしと答へる森内大に怒りて馬を一あて当てければ此馬常にはよくかけを出す名馬なりしが何とかしたりけん大いにひけて散々
に跳ね上る是を引き止めんとせし口取二人直に蹴殺さる。丹波心早き者故かくては乗り難く思ひけん差添を抜きかの馬の太腹を一
刀つきければ森内が運のつきにや誤りて腹帯をつき切る馬もつかれながら跳ねければ丹波守も眞逆様に落ち自身が抜き持ちたる刀
あやまりて心元にしたゝかにたつに言葉もなく相果てける。諸勢大いに驚き騒ぎ大将変死の上は月山へ御注進申し其上にて出陣可
然と申す者あり。弟源次兵衛行直が曰く変死と申せど劔にての落命は士の常に候行秀が死骸は山本平藏に若党相添へ乗物にて病気
と偽り本国へ送るべし富田へは上野庄三郎を以て御注進申上げおくべし御無心事に候へ共私の頼み宇山平野御両人大将を御勤め可
被下若年には候へ共私へ先陣仰付下さらば重々以て忝く候と被申、源次兵衛が勇を察して各々此儀尤也平野殿宇山殿大将を勤め可
被成と被申、是に依り軍議相定まり両人大将分にて急ぎ申される所に何かに手間取り比和にて既に日暮れに及びし故駒を止めて平
野出羽守諸軍へ向ひ被申しは今日は暮に及び候が何れも如何に思召され候哉此所に止宿可申や定めて大手の勢は明日矢合せ可有之
と存ずる也此方には障あり計らず延引に及ぶ此事いかに被申召候やと被申、宇山右衛門尉の曰く何様にも久代の搦手高の平子河原
迄道のり聞定め案内者取るべし先此所にて止陣は無役に存ずると被申、是に依り出羽守家臣谷崎五平次を召して申さるゝは其方は
在家に行きて里人を一二人召連れ來るべしと云ふ。五平次畏りて在家に行き見るに皆空家也遥の山下にあさましげなる小家の在る
に尋行き見れば年の頃五十許りの男右の片手なき者一人居申すこれを召連れ帰り出羽守此趣言上す平野此男を呼出し申さるゝは当
所より高の平子河原へ道何程有りやと問ふかの男答へて山越を仕候へば三里又中道を通り候へば五里餘本道筋へ通り候へば八里御
座候と申上る又平野が曰く当所の空家あるは何故かと問ふ同人答へて此頃雲州より出軍といふ事があるとて此用意に久代様より人
夫に参れと仰せられ足達者の者は五六日以前より皆参り妻子年寄の者共は外村へ遣はし只二三人廻家番に残り居候と答へる又曰く
当所は地頭か又久代の代官はなきやと問ふ同人答に地頭は三河内大膳正、代官は亀井庄三郎福光藤三郎宇山政右衛門也郷士は藤井
六郎平衛三河内作右衛門と申者に候所此三日以前に各々舘を明け大富山へ入城也一向に当四五ヶ村に田夫野人等も無之由を申上る
出羽守曰く雲州軍勢今日何時に此所を通りしぞと問へば九ッ半時に候此御方も西城大富の城へ此所より道を御尋ね有故細々申上候
先当所より大富迄三里此道筋に五ヶ所難所御座候両の山險阻にして谷せまく其上此間より大木を伐りかけ往来を塞ぎ鳥ならでは通
ふ事ならず候若し雲州勢きりあけて一二の難所を乗越す時は左右より火を放ちみなごろしにせん謀有り此事を当所にて御聞あつて
此所より案内者御取成され山道を御通りにて小原福山越しに中野村八幡山に御陣を成さるべき思召にて当所にて御評定ありて御出
陣候が未だ御案内の者も帰り不申候へば此餘は不存候と申上る、出羽守曰く是より平子河原へ通る道に久代の出張有りやと問へば
本道筋には伏勢二三ヶ所もある由承り候と答ふ平野が曰く山道筋は難所有りやと同人答へに山道筋に難所多しせつ所に大木を切り
かけ候中道筋には未だ六ヶ敷構へ候由も承り不申といふ然らば其方案内致し候はば金子拾両可遣とありけるに同人の答に久代様他
国の衆に案内致すものは何れにても其後に至り逆はりつけにするとの御觸に候間得仕る間敷き由を申上る平野両眼を見開きおのれ
武士の申す所を用ひざるに於ては絞首申付けると大音に睨みつくればこれに恐れ然らば御案内可申上候と言ふ、各々此所にて兵糧
を遣ひ案内者先にたちて小屋原峠を打越し川北に入込む所夜も四つ過ぎる頃なりしが両の山より後陣を当て石火矢打入る此音を聞
き何事なるぞと言ふ所に左右の山を見れば峰々にたい松星の如くにして鬨の声を揚げる先陣は後陣の騒を聞きて取つて帰さんとす
る所に向の山より石火矢を打かける尼子の勢夜中なるに案内は知らず所は狭し敵を防ぐべき様もなく只もと來し道を便りに吾先に
と引退く。宇山平野大音にて夜討の敵は小勢なり殊更印を付る兵は一人もなし是を印に討取るべし丸備へにして敵を待引退けば犬
死せんと下知すれ共元来気疲れて勇なき士卒なれば大将の下知をも聞入ず方々分れて散々に落行く両の山よりは大木大石を投げか
け三河内大膳これに有りと名乗り谷木卯右衛門こゝに有りと言ひ烈しく下知をなし石火矢を打かけ逃げ行く敵を追討事甚々也森内
源次兵衛平野宇山幸田武蔵守山中次郎左衛門打死す其外の士も深手を負ひ方々落行く士卒悉く討死して討残されし者赤裸にて雲州
へ引取る備後へ向ふ時千二百餘騎と聞えしが富田の城へ帰る者二百餘騎には足らざりし三河内谷木手始めの軍に打勝ちて山中幸田
平野森内宇山が首を久代へ送る其身は山林に隠れ居り又も雲州勢來る時謀を以て可討待居たり。月山には尼子先達丹波守が変死不
吉也と眉をひそめ諸士を集めて評定あり本條越中守に千五百騎相添へ大手へ加勢すべし搦手は牛尾左馬助佐加良十郎兵衛尉両人是
も千五百騎加勢の事相定る所へ宇山平野向ひし所に搦手の勢散々也大将討死其上月山へ帰りし者共其赤裸なれば恒久是を見て大い
に怒り此上は恒久自身陣立つべしと被仰是に依り嫡孫晴久の曰く君は何卒御止り給ふべし此度の儀晴久に御任せ給ふべし様々申上
給ふに依り晴久御出陣相定る九月廿八日に御出陣治定然るに其夜四つ時分恒久公俄に大熱御身悩み給ひ熱は火の如し惣身より出る
汗は湯玉を飛ばす如く也近国の医師相集り療治すれ共更に其印なし大社大仙に日御崎諸社諸寺にて御祈祷あり是に依り晴久の出陣
延引に及ぶ然れ共追々御病重り給ひて同廿九日御死去也然れ共此度は備後の敵方へ此事を深く隠し御病気と計りにて沙汰無之一家
中町内三ヶ国へは恒久御病気にて晴久公御支配と觸れ被申候備後国へ出陣大名十月二日月山城へ帰陣是に依り同月十三日に恒久公
御死去の御觸あり丹羽守御他界は同十四日也平野殿御跡目は御子息刑部殿へ被仰付、尼子御家督は御嫡孫民部太輔晴久公也御後見
尼子佐渡守友久公。
尼子勢中野村八幡山に就陣廻並軍之事
荒木右衛門横山長門守勇戦の事
去程に久代討手の大将尼子筑前守信久同川尻下野守氏倍其勢都合四千五百餘騎天文五年九月廿四日中野村八幡山へ陣取久代高盛
は豫て用意の事故諸卒も今や遅しと待ち居たりける。
先づ胎藏寺の柵は後は二備津山也前に逆茂木を引かけ塀一重ぬり櫓を五所調置きさきを廣くあけて寄手を射落さんと構へたり大
将に奥宮豊後守盛忠津加田泉守兼俊両大将也安井矢吹大戸を相従へ其勢三百餘騎何れも強弓の精兵を選び籠られたり。
二の丸には大将荒木対馬守也同子息友之助、軍師渡邊七郎右衛門尉相随ふ人々には梶新左衛門尉小野小多郎黒木多郎兵衛永野長八
神代兵右衛門津村次郎兵衛小原新五郎長谷元右衛門油木三郎兵衛落合六郎兵衛士深惣八郎尺田又兵衛都合此勢四百五十餘騎楯籠る
其旗印を見るにたき稲の紋付たる旗三本、三星に一字の紋付たる旗三本、其他色々紋を書きたる旗拾弐参本五色の吹き貫き七八本
立て山吹く嵐に翻り龍蛇動くと疑はる、大手の内には石火矢数百丁荘り立てすはと言へば打かけん用意也丸の切岸の上には大木大
石積上げおき近く敵を打ひしがんと構へたり。かぶと山大和入道秀全居城へは先秀全を大将とし相随ふ人々には荒戸野力之助吉形
西方幸之助總嶋兵左衛門西山傳次郎菅野傳六郎松尾吉十郎埋木惣八郎八ッ頭助四郎白水文七郎久宗久藏山口惠助都合此勢四百五拾
餘騎たき稲の紋付たる旗三本、白黒吹き貫き八本立て其他水におもたかわ違也木香楮の葉四つ目繪紋付たる旗拾本立て金の御幣の
馬印門櫓に立てさせて勇ましく守り居る。三ッ原に屯を構へ大将横山長門守同宮兵部少輔、附随ふ人々には赤木作右衛門尉宮崎卯
右衛門大嶋玄蕃横露平馬鍛冶十郎兵衛金屋子彌五郎嶋吉十郎安井助右衛門一枚にたてつき並べ馬をば道に立てさせて用心厳しき勢
なり其勢三百餘騎是は川筋を忍んで二の丸本丸へ入らんと謀る者を討捕る用心也若し搦手の軍難儀に及ぶと時は横合よりかゝる用
意也旗は水色に蔦の葉の付たるを一本立て赤白の吹貫八本立て白旗二つ引紋又三つ引き紋付けたるを拾本立て谷風にもまれて大海
に白浪を立てるが如し。中野村有田山舘には対馬守の子息荒木熊之助を大将にて同善次郎岡崎三郎兵衛油木三郎四郎同又八郎岡崎
左門秀木全村長者法印別所助四郎大矢小次郎上田武八水谷喜兵衛石原助十郎福山次郎右衛門都合百五十三人也塀櫓の内に白旗に山
かたに木香の紋付たるを拾本立て青白吹貫八本立て城門をかため控へたり是夜討の為に当所の案内を知る人許り籠置く。大戸川北
の境には三河内大膳を大将に谷木卯右衛門亀井藤井宇山福光林の内に隠れて搦手へ廻る雲州勢打散せん役也其勢二百餘騎近村百姓
共を集めて都合四百八十餘騎道辻々に忍を出し雲刕勢の來るを待つ後の備へには大戸の薬師寺へ宮吉兵衛大草三十郎藍原左近國頭
吉郎兵衛此勢百八十餘騎の出張也松本源次兵衛升田六郎兵衛入江隼人三人に小足軽廿五人づゝ一人に与へ大戸の谷筋山の峯を廻ら
せ是はもし敵方より大富山へ忍を入るゝ事もあるべきを討捕らん用意也搦手に藍原高尾両大将其勢三百餘騎三つ割菊紋旗無紋白旗
黒白の吹貫二十餘立てかためたり。本丸に総大将宮上総守高盛公田邊大隅太輔國頭左右衛門尉佐々木玄蕃同左郎次郎久代惣右衛門
東左近仙石吉十郎宮丹部日野次右衛門長尾備中守三橋兵之助宮長門守氏常東主膳三好作右衛門此勢一千餘騎近国近郷の諸士の妻子
は皆本丸に入城す佐竹主計頭軍師也城内には石火矢数百丁荘り立て旗吹貫二百餘流立させて籠りたり。
さて雲州へ遣しおきし渡邊東両人が忍の者追々立帰り細々様子言上致すに依り久代の備へ斯の如き也
東左衛門尉政幸は蟻腰に籠城して手勢百五十騎にて立こもり旗差物数十本立て有田と蟻腰と通路自由なる様に川に上に橋をかけ
謀をいくらも構へて控へたり。
尼子筑前守久代の陣を見渡し備を見るに一二の丸の外に五ヶ所出丸あり何れも旌氣天に渦巻き龍蛇の遊ぶに似たり劔せい光々と
して星の如く陽氣雲にかゝり其色錦の如し陰氣地にありて白露玉を亂すが如し人馬の勢清々として靜也とく見届け本陣に帰り川尻
下野守に向ひ只今某雑兵に紛れ陣外に出て高盛が備を見るに世の常の如に此城を責むる時味方討るゝ計りにて勝利あるべからず覚
候これこそ張良が云ひし考河の陣と申す者なるべし中に大川流出でゝ一二の丸間近し川の向に出丸三つ有り城続きの地に出丸二つ
有り寄手の陣を其内に取らせ大勢寄せ來ては分内狭くかけひき自由ならず五つの出丸大山を後に当て城方の通り自由也大勢を以て
巻責にせんには大山ありて不叶、兵糧責にせんには山谷に道多き故難叶寄手は大手搦手の両方より責めるに城方には山を傳い千変
萬化に手立をなし寄手を悩ますの便あり麁骨の合戦なり難し尚又長行の疲を見込み城方より今宵夜討をかけ間敷事にもあらず御油
断なり難しと演る、川尻の曰く吾も見陣可致と其身も雑兵の扮装にて久代の備へを見廻り筑前守の陣所に帰り扨て珍敷陣備に候一
二の丸は高盛荒木が旗紋見へて旌氣勇み劔勢ありて靜也五つの出丸何れも良将の籠れると見え旌氣光々として劔勢星の如き也此度
貴城も吾も当城へ向ひ生きて再び雲州へ帰るべしと思はば末世末代迄武名を穢し可申也各々も若し雲伯へ生きて帰らんと思はば今
宵潜に帰陣あるべきよし被申、諸士の答に戸田を出でしより一命は君に奉り屍は西城の草葉に曝すべしと存ずる事故死は一緒と存
じ居るとあり、両将さも嬉しげに然らば軍は明朝未明可致今宵は夜廻り油断有間敷夜討用心肝要也と申付けて明日の先陣二の丸へ
は南形七郎兵衛義元松田加賀守御両人大将にて森惣左衛門亀井次郎兵衛三木三郎左衛門池兵之助此勢六百騎御向ひ可有左の出丸へ
は戸田三河守殿三澤岩見守殿先陣にて佐和民部太輔大将にて三百五拾騎御向ひ可有後陣は山口源太夫殿大将にて垣屋三郎右衛門池
田文右衛門井原藤兵衛八百餘騎向かひ可被成、川より東の抑には大東織部之助殿大将にて河合杣山米村米原八百餘騎御固め可有、
川尻殿は千餘騎にて此山の麓に御陣を据えて諸軍の命を司り給へ某は此陣に有て川上より下る城方を押へ若又後巻の敵有る時是を
防ぐべし殘り勢七つに分け陣可備と聞きて明くるをぞ相待ちける。
扨て城方には高盛公御近習御家老の面々軍師佐竹二の丸へ御出馬有つて尼子陣立を見給ふ渡邊佐竹の両軍師被申上候は御前にも
御覧被遊候へ尼子の陣旗氣たへて劔勢地に落ちて陰の形あり陽氣を失ひ諸士に勇なしと見へたり只今七つの時太鼓を打つにひいふ
う三つの調子離れて離の卦に当たつて中絶えたりされば此度寄來大将変有ると覚候軍は味方の大勝利、明日の合戦は絶々たる旌氣
の内に見所候明日の合戦は先胎藏寺の奥宮が出丸を手痛く可責と相見へ候間佐竹は是より胎藏寺へ参るべしと申上らる御大将聞召
し御機嫌よく御盃御出し有りて何れへも被遣仰出されしは然れば佐竹殿には奥宮へ力を合せ申さるべし予は帰城致す也と直に御帰
陣まします佐竹手勢八十餘騎にて胎藏寺の陣へ加はりける、扨て東政幸は荒木熊之助同道にて天戸大明神の社へ上り尼子の陣を遠
見し政幸の曰くあれ見給へ荒木殿旌氣の足といふはあの事也旌氣左右へ乱れ定かならず是は諸方へ勢を分け備の氣也旗さらさら動
かずして靡くは陽氣を失ふ所也陰氣は地に沈む諸卒勇なし此氣を知る事は人馬の音許りにて天に轟かず是軍の不吉也此氣に当て我
陣に見る時は貝を吹き太鼓を烈しく撃たせ足軽を戒め旗を慥に持ちて一勢々々に弓鉾を立てよと下知をなすなり是れ将の知る所也
孔明が七書の内にあり今敵の馬の嘶きしを聞給へ其声荒々しくして響きなし是五韻氣絶なり必ず道中にて変有しに相違なし是は搦
手廻勢半途より引返すか又三河内謀に落され討死せしかに疑なし天是を氣に教へ給ふ依て無恙來りし諸軍勇まず此氣に当つて見ゆ
る上は尼子が勢当國に五日と足は溜めさせじと思也今宵敵の疲を見て夜討と存ずるも今陣氣を見るに陰氣以ての外淡し夜討利なし
又氣を見合せて夜討かくべしあれ見給へ今兵糧遣ふと見えて煙大いに立上る也かの煙天にかゝらず地に横はる事正しく搦手大将今
宵九つ時迄討死に疑なし是孫子が陣用書に記しおく所也と細々熊之助に教へし也時に其夜明方に三河内が飛脚大富山に來り搦手大
将を川北に討取り軍勢迄殘らず討取りし由を注進申すこれ聞く人々かの三人の軍師申されしが少しも違はざれば勇みて敵の寄する
をぞ待ちにけり。
明くれば九月廿五日未だ明渡らず月影少し殘り人馬の色合ひ明かならざるに貝金を鳴らし備を立て八幡山を押下る久代方には豫
て用意の事なればなりを鎮めて待居たり先一番に松田南形六百餘騎にて二の丸目がけて押出す胎藏寺の出丸へは戸田三澤が先陣に
て大将佐和民部太輔後陣の大将山口源太輔弘政相随ふ人々には垣屋三郎右衛門道春池田文右衛門吉光同作右衛門尉同隼人祐井原藤
兵衛同備前守此勢八百餘騎繰り出す川より東の敵の押には大東織部之助大将にて河合川村米原米村此勢八百騎川端へ張出す川尻上
野守一千騎に八幡山の尾山を後に負ふて陣す、尼子筑前守殘り勢一手にて八幡山に陣す是其後巻ある敵を防ぎ又川上より久代へ力
を合す武士を討散す用心也。扨て諸勢目白川を渡りおめき叫んで責かゝる城方はしずまり居しが矢掛りに敵を引入れ胎藏寺出丸の
切岸の上より石火矢二丁打かけゝる、又二備津の社よりも同石火矢打かける、雲州勢散々に打散らされ浮足たてゝ見えければ松田
南形佐和軍配振立々々大音聲にて下知をなし松田佐和眞先に進みて責寄る南形後の軍勢せり立て軍に石火矢打つは常の事也只射む
けの袖かたむけ押寄せ踏散せと下知をなす、軍勢又もり返す所に佐竹主計頭櫓に登り大音にて時分よしよし今打つ者共引付て鏖に
せよと下知をなす勇立たる城兵なればつるへ合せて石火矢を打かけるに佐和松田は石火矢に打砕かれ微塵になりて失せにけり南形
も手負ひ半死半生にて馬にも乗り得ず家臣木次三郎右衛門に助けられて後陣へぞ引入る、後陣色めき乱れて聞えけるに川端に備へ
たる大東杣山は備を少しも亂さず悠々と太鼓打て控へたり、横山長門守是を見て曰く一二の陣の敗れ既に後陣も色めくに川端に備
たる勢は其陣厳然として旗下の太鼓靜かなるは世の常将に非らず定めて聞及ぶ杣山か大東織部かに可有大嶋殿宮崎殿は此所に止ま
り後陣の備へに敵に勢の多少を見透されぬ様に太鼓を打たせ御守り可被下我々はかけ向ひ雲州の者共に刀の切味を見すべしとて二
百餘騎にて竹の鼻を打渡れば頭兜山より是を見て秀全下知をなして荒戸野力之助總嶋兵左衛門西山傳次郎菅の傳六郎松尾吉十郎埋
木惣八郎久宗久藏入道が一子荒木右衛門秀豊を大将にて其勢三百餘騎にて上の瀬を打渡る杣山大東下知をなし川を渡る勢を射て落
せ者共と軍配を打振り烈しく下知をなし精兵射手立ならび雨霧の如く射かくれ共元来荒木横山は今古の大勇士共なれば事ともせず
曳々聲を出して岸に颯と駈上る横山荒木此度の用意に東城の鍛冶に拾五斤有る鉄の棒うたせしが是を打振り当るを幸になぐり廻る
に此棒先に当る者一人として生たる人なし相随ふ軍勢五百餘騎吾劣らじと打て廻る流石の杣山大東が軍勢も浮足になつて見へけれ
ば後陣に備へし川尻下野守大音にて大東杣山を討すなつけや者共と下知をなすはや杣山大東が陣大崩れになつて後陣へなだれかゝ
る川尻怒つて引來る勢の中をつき分け討て出よと下知をなせば早うら崩れになりて思はず八幡山へ引上る然る所に久代高盛公より
荒木横山の両将へ御使者高坂川嶋両人を以て被仰遣は両将共今日の働き古今珍しく相見え候士卒共に粉骨盡され候段珍重候余が存
ずる旨有之に依て只今其勢を川より東へ引取り可被備事に後刻此元より下知可致是非引取旨御下知也と申される、時に両人の曰く
御上意に候へば引取可申候残念に覚候此勢を以て追責め尼子筑前守が首を見んと存ぜしに力不及事に候元来軍圖を外すに相当り候
と被演高坂の曰く御尤に承り候乍併良将の仰に候へば深き御計ひも可有之候間御上意の通り御請可然候と申さる横山の曰く此義は
御答には無御座候只心底を貴城に御話申せし也御前へは只畏り候との義言上賴上候と申して直ちに貝鐘をならしかちどき三度挙げ
て静々と川より東へ引渡り陣を備へ控へたり。
小野庄兵衛尉を御使にて奥宮豊後守へ被仰付候は此度三河内大膳谷木謀を以て搦手へ向ひ申所の尼子勢を討散し大将三人討取此
首を当城へ送れり是三河内が勇也此三人衆に遺恨なし尼子指図也定めし八幡山の陣中に彼等が血縁の者共も有るまじきにあらず首
を持て雲州へ返りたしと思ふ者共有間敷者なれば先陣の習なれば一旦は梟木にかけ曝す間請取に可参旨矢文を以て八幡山の陣へ送
るべしと被仰付、此旨小野庄兵衛胎藏寺の陣所に行き盛忠に申す、盛忠畏候と御受申し直に若党中間二十五人召連れ胎藏寺の二備
津社の左田中へ乗出す其日奥宮が扮装は黒どんすに白糸にすゝきにうさぎを縫はせたる直衣に白糸縅の鎧に鹿の角立ものにしたる
五枚頭兜を猪首に差し五人張丸はぎ弓に廿四さいたる切ふの矢筈高く負ひなし白月毛の駒に黒くらおかせ厚房の尻がいかけ太く逞
しきに乗つて金作りの太刀はき矢ころよく駒をかけすへる。若党中間は左右に控へさせて弓杖をつき大音声に呼はりしは、吾は宮
の家代々の家臣奥宮豊後守盛忠と申者也当城の大将高盛公の御下知に依て其陣へ矢文送り申也尤も目当不仕故流矢も同前也其山の
麓の杉の木射可申受取り御覧あるべしと言ひて中さし抜出し若党に持たせる矢書を取て三尺許り糸を付けて御文を矢に結びきりき
りと引絞り矢声をかけて切つて放せばねらひ少しも違はず杉の木に一揺ゆりて立つ出雲勢是を見てあら恐ろしの弓勢かな如何なる
因果の者が此矢先に当つて命を捨てんと身を縮め舌を巻いてぞ控へける川合半蔵が曰く敵の矢文來るを見物して益なし取て御前へ
差上べしとて太刀抜きて側におきひとかい余りの大木へ猿の走るが如くさらさらとのぼり此矢をつかみ抜かんとせしに大精兵の射
込みし矢なれば少しも動かず矢竹を折り取らんとすれ共七九竹晩節の矢竹なれば折れず詮方なく差添を抜いて切落し是を尼子信久
の御前へ差出す先矢を取り御覧ある世の常の者の矢にあらずと宣ひ裏筈を見給へば奥宮豊後守盛忠と彫り付けあり扨は此の矢盛忠
の矢也昔の俵藤太の矢なりとも是には勝るまじと宣ひ矢文を押開き御覧有るに搦手へ向はれし大将三人を三河内大膳が手討捕り首
を久代へ送る是に依り武門の習に候間二の丸の前に曝し申也御縁有るに於ては勝手次第に此首を御引取可被成候と書き送れり、是
を見て信久の曰く高盛は智仁勇の三徳を兼備へたる士也誰ぞ一家の有る哉と陣中を尋ねられしに三木次郎右衛門木次千五郎佐久間
惣右衛門森内喜兵衛此四人衆一家と申上る信久聞きて然らば木次殿森内両人請取り可被参、尤も其身は上下にて供廻二三人にて出
御あるべし軍中と雖も格外に候佐久間惣右衛門殿は奥宮の陣所へ参り一禮を演べ御帰り可有尤扮装は各々同断可被成候三木三郎右
衛門殿は御苦労ながら目白川まで出陣ありて三人の衆を御迎あつて帰陣有るべしと申渡す、是に依りて何れも其用意にて御出であ
りしに首請取の衆は二備津畷へ御出の所に足軽五人番人なりしが両人より此趣申しければ畏候と申しかの木に緒りたる首を渡す二
人の足軽之を請取り互に黙礼して東西に帰る又佐久間は奥宮の陣門に來り信久よりの使者の由を申入る、門番此事を両将へ取次ぎ
津加田が曰く今信久が使者は定めて今日の禮なるべし深谷六郎兵衛殿御案内ありて是へ御通し被成候へ深谷出迎ひ佐久間同道にて
豊後が前に來る奥宮が曰く珍しや佐久間殿先これへ御通可有之と言ふ惣右衛門答へて扨今日は軍中の事早速申入候各々堅固の態大
慶に候信久が申候は三人の者の首此方へ城方より御返し被下段忝候御礼の為め某罷越し候也此趣き高盛公へ宜敷披露頼入候と相演
る津加田が曰く御念入の所承知致す此旨高盛公へ申述ぶべく候佐久間が曰く常の参会に候はば御物語も可仕が軍中に候へば早速な
がら御暇申也とて座を立てば高坂門外迄見送る各々目白川にて待揃へ本陣へ靜に引取りける。
此後両陣は軍使を立て軍は明日と言ひ合ひ両陣堅く相守る出雲勢は今日合戦に討れし者の死骸など尋ねる者あり。
高盛公より被仰出は勝軍の油断考へ尼子方よりの夜討計り難し夜廻堅固に可致旨御觸なり、頭兜山と三原へは梶新左衛門長尾両
人を以て今日の働き古今大勇に候とて酒肴を送り申され明日は川端に御備有て可然候此方より貝を吹き候時を合図に川を越し責寄
可被申との上意也諸陣堅固にして明くるを待つ。
荒木熊之助名越孫左衛門尼子の陣へ夜討の事
去程に東政幸が下知に依り九月廿六日夜有田の舘より山を傳ひ八幡山の峯に忍び行く其勢八十餘騎何れも案内知ったる者共なれ
ば心靜かに行き諸陣を見合すに皆夜廻り暇なし其夜は少し村雨して暗き事目ざすも知れざる夜なりし故思の儘に忍び入りよく敵の
所在を見すまし雲すきに旗差物のあまた有る陣を見合せ近く寄て用意の明松へ火を付て陣屋へ投げかけ鬨の声をどっと擧る。
そりや夜討と陣々大いに騒ぐ此所に隠れ彼所に顕はれ鬨を作りかけかけ散々に斬って廻る此陣は川尻下野守の陣なりしが今日の敗
軍を残念に思ひ是非明日の合戦には討死と思ひ定めて居られし所なれば我が陣への夜討は望む所の幸なりとよろひを取り肩に打か
け長太刀を小脇にかい込みはたし馬に打乗って士卒に下知せられけるは夜討の勢は多勢にあらず其上印を付けたるは一人もなし選
び討捕るべし者共続けと大音に呼はつてかけ出し給へば若党御側馬廻吾劣らじと二百餘騎魚鱗になって打出る然れ共暗さは暗し眞
の夜の天地も更に見えざれば一向に敵の所在も知れずかけ廻れ共討べきすべは更になし夜討の者共は案内知ったる者共なれば後に
あるかと思へば前に廻り散々切って廻る胎藏寺の陣三ノ原の屯二の丸頭兜山蟻の腰有田の城には金鼓を打ち石火矢を放ち鬨の声を
挙げて今にも押寄す勢なり是を見て陣々大いに騒ぎければ大将尼子筑前守諸陣へ軍奉行を廻してけわどく下知を傳へる、敵の夜討
の勢は五十騎を過ぎず其上印を付くる者一人もなし出丸より石火矢をうつは此陣を騒がす謀也味方は陣を丸備へになして一人も切
って出る事勿れ敵近づく時は切て落し只一足も進むべからずと下知をなす故に諸陣鎮まりたり然れ共川尻は今日の後陣の敗れし事
を残念に思ひ此夜討功を立てんと大はやりにはやりて切て廻る荒木熊之助之を見るに頭兜は龍頭鎧は赤糸の縅なればあれこそ川尻
下野守に相違なし彼を討取るべしと思ひて大木の松陰に身を隠し待居たり斯とも知らず川尻は敵を左右に追払い駒を乗すへ一息次
いで立てる所へ荒木近々と忍び寄り鐵棒を以て馬の前足を打折る馬はどうと倒れたり乗手真逆様に落る所を熊之助走り寄て起しも
立てず捕押へ首をかゝんとする所へ中間二人來り熊之助に切てかゝる名越孫左衛門走り寄り二人の中間を切る此間川尻が首を捕り
勝どき挙て山へ引上る、川尻が家来抜連れて切てかゝる引勢は多年の案内者共なれば道を求めて引上る追行く者は夜は暗し案内は
知らず詮方なく又陣所へ帰り信久へ此旨を注進す信久が曰く案内知らざる所に夜軍に敵を討たんとすれば必ず犬死をする者也然ら
ばこそ陣を丸備にして馳せ込む敵あらば選び討にすべしと下知を致せしに川尻殿は御用ひ成さらず犬死同然の討死は残念也と拳握
り牙をかみ涙をはらはらと流し給ふ諸士尤也と感じける。時に神戸が陣所より注進申す君御覧遊ばさるべし諸の山に夥しく篝火の
見え申すは敵の遠巻致すと見へ申候と言上す、信久陣屋を出て此火をとくと見て曰く久代軍師也されども行届かぬ事あり各々見給
へ天地にかがやき渡ると雖も光輝なし正しく是土民の燭火也武士の燭篝火は天に輝き光あり糧煙なども民性の上る時は其煙天を恐
れて中流に横はって高気なし武士の上る時は風あって中流に横はると雖も其気天にかゝり雲を亂す是張良が軍琳の巻に見えたり各
々いみじく思給ふなと申さる諸士これを聞きて勇の色を表はしける。時に信久が曰く明日の合戦にて杣山大東の両人先陣可被致、
先杣山殿には目白川を前に当て陣張り二の丸胎藏寺の敵を平場へ引出し合戦可有、大東殿は川より東の二ヶ所の敵を受けて一戦可
有、神戸赤名は此本陣に有って後巻の敵あらば是を防ぎ給ふべしと何れへも備を申渡し酒盛を催ふし自身船辨慶唱ふて各々へ酒を
勧められける。是に依て諸士のつぶやきしは信久殿は祖父六角信秀の勇に少しも劣らず此度の合戦は出陣より此かた追々不吉の兆
あり搦手へ向ひ被申し衆は皆討死今日の合戦も今宵の一戦も味方利を失ひ世の常の将ならば気をくづし少しは臆し可申を諸軍勢を
戒め軍法を定め少しも周章の色見へざるは大丈夫也と諸士感じ入り各々陣所に帰り明けなば陣立して昨日の敗軍の耻辱を雪がんと
勇みすゝみて明るを待居ける。
雲州より備後中野村陣所へ飛脚來る事並に尼子勢帰陣之事
扨も諸士は今か今かと合図貝待つ所に戸田より早水源太兵衛岡山平右衛門中野村の陣へ來り大将信久の御前に出て封箱を差出す
家老杉原與右衛門之を受取り御前へ披露す此文に曰く。恒久公御急病也其陣を引払ひ月山へ入城有之旨との事也是を聞きてこは由
々敷大事也と人々眉をひそむ信久が曰く諸将不残当陣屋へ相集り可被申と若党上野半兵衛を以て申遣はす。杣山神戸大東瀧川宇野
高山を始め相集る信久より被申は、雲州の飛脚到来致す此状各々被見可有之と差出される各々被見ありて是は御大事に候と驚き入
って見えしかと信久少しも騒がず各々如何に思召候哉此信久に於ては一心少しも不驚候各々意見聞かまほしく候とある時、諸士の
被申は一先此夜の内に雲州へ引取べしと申すもあり今引取りては勢たる久代勢追討致すは必定然ば難儀なるべしと申すもありて意
見区々也然る所に杣山進出でて申されけるは未だ夜深に候各々は此陣を払ひ雲州へ御引可有某事は手勢を以て当陣に残り居り太鼓
を打ち鐘を鳴らし今にも押寄すべき勢を敵に見せ朝霧晴るを待つべし其時敵方此陣の無勢なるを見てすはや尼子の勢は大半雲州へ
引たるぞ残る勢此方より押寄せふみ散らせと追討つはやり男の若者共乱れ足になりて平場へ打出るは治定也其時勢を数々わけて敵
の中へ切て入り必死の合戦を仕度候吾出雲をうち立つ時より命は君に捧げ骸骨は備後の地に埋め可申定め居る愚親が遺言を守らば
君への不忠我此軍陣に討死して冥途の父へ申訳仕度候と存ずるなれば若党中間の内にも一人にても生きて再び雲州へ帰らんと思ふ
輩は早く本国へ引取可申と申さる。家臣共曰く我々は生きて本国へ帰り申す事更に考へず何処までも君の御供可申候杣山家臣何某
事命を惜しみ主君を見捨て本国へ帰りしと末世末代迄不覚の名を残すべきにあらず御供可申と一同申し誠に思切ってぞ見へける、
杣山にこつと打笑み各々の志冥途の父に申きかすべしとさも嬉しげに見へける。時に大東神戸上石宇山が曰く我々は杣山殿一緒に
討死可致と言上ある、信久の曰く士の道は各々被申通り理に当って承り候取分け杣山殿被仰候所は愚士が身骨に入り通して候愚士
が存ずる旨何れも申演べし、久代は仁勇の達人と聞及ぶ然れば今戸田より申参候趣を申遣はすべし高盛智仁勇の士ならば我々速に
雲州へ引取るべき旨申し越すべき也兇悪の将にして謀を軽んずるなれば言葉を飾りて返答あるべし然る時は当陣を押寄十死一生の
合戦致し討死可致と存ずる也若し引帰り追討に討れ候時は末代迄の武名の穢れと被存候方々いかにと仰せらる。何れも此儀尤と申
上る、信久の曰く然らば退儀ながら米原殿久代へ使者に御出可有之と被申、米原平左衛門畏て候と御請申さる時に信久曰く今度貴
城高盛殿へ直々対面して戸田より主君難病の由申参候是に就いて諸将並に軍勢出雲へ引取申度候士卒を無恙雲州へ御返し下さるに
於ては筑前守切腹仕り申すべき間御検死可被遺族此儀不相叶事に候はば此陣を引かず討死可致候と演べらるべく貴城は元来人相の
達人なれば座中の士と高盛の風異篤と見合せ御帰り有るべく此方の謀あり、夜も明け候はば米原殿城方へ御出可被成候各々は出陣
の用意あり目白川迄軍勢取出し米原殿の御帰り御待可被成と申渡し何れも其用意を被致ける。
米原平左衛門大富の城へ使者の事
並に尼子勢雲州へ引取る事
尼子勢は目白川を前に当って未だ東雲に陣を備へる米原は城へ趣く、其の出立先づ米原はのしめ長袴供の者共は上下、其身は馬
上にて二の丸の木戸口に行く、某事は米原平左衛門と申す者也、信久より高盛公へ言上申上べき旨あって罷越申候御取次御披露頼
み存ずると申し入る。承知仕ると申して足軽入江佐助直に荒木へ此旨を言上す、折節高盛公も二の丸に御座あって直に御聞遊ばさ
れ仰せられ候は何様にも信久の使者を是へ通すべしとの御上意也是に依り入江佐助案内にて御前に出る、米原敬白す信久より申越
候は主君尼子急病に付此陣引払帰陣可致旨牛尾加賀守方より昨夜申越候主命の儀に候へば士卒不残戸田へ帰し申度候此儀聞届け下
さるに於ては信久は当城の検死引請切腹仕り愚士が首を士卒の命に替へさせ下されば難有仕合に存候此儀相叶はずとの御事に候は
ば士の道に任せ当國の草葉に諸士の尸を曝し可申候此段御被露頼存ずると申演べる荒木対馬守曰く使者の趣承知致す主持つ武門は
何れも同前信久殿御存心尤の御事に候御前の儀は宜敷御披露可致此趣は荒木が一命に替へて御前は宜敷申上べく心安く思召さるべ
く候貴城は急ぎ御帰陣あって信久殿へ此旨御達し可有之此方より使者を追つけ申可遣候米原は御前宜敷と演て立ちかへる。やがて
久代諸士を招き此事披露あるに若武者は天の與ふる所也押寄せて討散し鏖にせんと言ふ者あり謀を以て追討に可致と言ふ者あり意
見まちまち也横山津加田両人進み出でて被申は三河内へ申合せ比和高之山間にて我々野武士に出立ち尼子が勢を謀り出し討捕ふべ
しと被申、家左中は先達対馬守被申所あれば一言も言出す人なし両軍師は眉をひそめて一言も言出さず高盛公被仰出は各々の意見
軍の理に当り圖を外さず面白く聞え候血気剛勇の士思ふ所也誠に方々は宮の家の大勇臣也開運長久の気瑞也然れども各々の心の如
く謀る時は武士の情けを失ふに当る和軍放元記の巻に窮鳥懐内に入る時は狩師是を免すとあり猿の人を拝する時此の猿を射ずとい
ひ敵なりとも実言を演ぶる時はこれを免し親類其外味方なりとも言葉飾り虚言をいふ表裏の輩は直に討果す也家臣迄も追払ふ者也
此度信久が言ふ所は実言に当る此度信久を助け返すといふ共重ねて尼子と対陣に及ぶ共勝つべき軍に負けはせまじ彼を一人討たる
とも負軍が勝にも成るまじ只軍は時の運によるもの也此度の一儀は荒木殿の御存じ寄りに任せ可然と存ずる也と仰せらる。渡邊佐
竹此儀可然と奉存と申上らる一座の諸士も高盛の明知の勇を感じ我々申所は只一たん儀に御座候君の仰心服仕候と恐入って言上被
申是に依て対馬守殿御計ひにて家臣荒木次郎兵衛使者にて信久へ申送られしは先刻の御使者の趣主君高盛へ言上仕候所若者共は其
陣に向ひ此圖に乗って踏散し申度由を申す所に高盛の曰く貴城の首、我分国を踏み荒し候科料に受取申度候然れ共主命大切の事此
儀に不及軍勢不残御引取可然此度貴城の命を生け返すと言ふ共重ての対陣の時何の妨なし戦場ならば家臣共が鑓先を以て信久殿首
をも申請べく切腹首は此方に入用無之御心靜に御引取可有之候只今三河内大膳方へも陣を引き分け貴城の軍勢通し候様に申遣はし
候間道中相違あるまじく候此由を其方信久の陣所に行き細々筑前守殿へ申演ぶべし又酒盛拾荷是は荒木が見送り寸志に候差出し可
申由細々申し渡す、次郎兵衛畏候と申す、直に馬に打乗り上下拾参人八幡の陣所へ行き案内せらる、杣山出向ひ挨拶を述べ直に信
久が前に同道す対馬が口上を演る筑前守是を承り信久の曰く高盛公の智仁勇恐入候荒木殿の御取なし忝く候殊更今日の御心付進物
に預る事思ひも寄らず身骨に通り忝く候又も対陣に及び候時は鑓先を以て信久が首進上可申候乍併御油断候はば例令鐵城なり共我
鑓先に突崩し可申候此旨此旨荒木殿によくよく御達し可被下候乍併此間討死致候者共の死骸御座候が是を取捨申度候其為に足軽共
を残しおき可申候取捨候所の地御指図承度候と演られける次郎兵衛が曰く其儀は御尤に候へば罷帰り主君へ披露申上直に申遣せし
むべしとて立帰りやがて二の丸へ此由対馬守へ言上す荒木聞き、安き事也我知行の内市の原といふ所へ取捨可然乍退儀貴殿罷り越
し此元より人夫百人合力可申候よし申送左の通りを信久へ傳ふ然れば百人御加勢御頼み可申とて御返事出雲足軽二人を残し麁末致
さざる様にと申し戸田勘兵衛山口惣右衛門森嘉兵衛内山六兵衛此四人奉行に残しかの市の原に大きなる穴を堀死骸不残此所へ取捨
て淨久寺長老結縁にて相調へ此所へ一の堂を建て是に依て此所の名を改めて堂ヶ原と申也尼子軍勢は仝九月丗日八幡の陣払ひ雲州
へ引取り同十月四日死骸等相片附け四人衆は荒木が舘へ行き厚く禮を述べ淨久寺へも禮をなし討死の首不残箱に入れ雲州へ持ち帰
り、からだ西城の土に残し誠に前代未聞の事どもなり。
吉田へ御注進の事
扨て合戦相すみ候につき東主膳正と三上を御使にて吉田へ参り宍戸殿へ出て右軍の趣荒木が謀諸士高名残りなく申し上る、宍戸
殿聞こし召され久代明智諸士の大勇毛利にも御満足に思召さるべく此度荒木が取計誠に驚入る武士の鑑也三人軍師共は世に希なり
高盛はよき家臣を持ち給ふ羨しく存也追面此方より御沙汰有るべし諸事は宍戸が請込申す也早々罷り帰り申さるべし久代殿へ此方
より後巻勢延引に及び武士の禮を失ひ申也是は軍勢石州へ遣はし候て無勢の故の事也、諸事後より可申遣と有って両人は大富山へ
帰り申し千代萬歳を祝ひ申候、時は天文五年十月八日也これより高盛公諸士へ此度合戦の手柄に応じそれぞれ御引出物遣はされ同
十三日各大富を出立して帰り申すと也
此 度 大 高 名
横 山 長 門 守 荒 木 右 衛 門 尉 奥 村 豊 後 守
荒 木 熊 之 助 三 河 内 大 膳
此外高名の人多し餘は記し不申也
( しほんちゃくしょくみやかげもりぞう )
讃部分 「 上総州太守傑叟昌榮居士壽像
大織冠鎌足大臣淡海公者仁皇三十九代天智
天皇御辰 肇賚藤原姓 宮家代々胤茲姓令之 」
( 照日姫 )( 宮景盛の息女 )
『 今櫛山伝説 』
むかし大富山城に、照日姫といふ美しい姫があった。
ある春、姫は下女たちと連れだって中野村岩津山胎蔵寺に花見に出かけた。
皆で花に見とれてゐると、若く美しい侍が近寄って来て、桜の枝に短冊をつけて差し出した。
侍は東左近といふ名で、姫に一目惚れしたのである。短冊には歌がしたためてあった。
○ 我が恋は岩津の山の桜花、言わず散りなんことの悲しき 東左近
気品ある若者に恥じらひながら、姫は歌を返した。
○ 思へども我も岩津の花なれば、さそふ嵐に散らざらめやは 照日姫
以来、姫と左近は人目を忍ぶ恋に落ちていった。 ところがまもなく、父君のはからひで、
姫は三河内村の三子山城に嫁ぐ事が決まってしまったのである。
姫は父君のいふままに嫁いではみたが、左近のことが忘れられず、すぐに大富山城に帰って来てしまった。
それでも母君にさとされて、再び三河内村へ行くことになった。
その途中、姫は、朝日山の頂上の池のそばの弁天さまにお詣りしたいと言ひ出した。
一行が険しい山を登り、どうにかお参りをすませ、一息ついたすきに、姫はそばの池に身を投げてゐた。
突然、雷雲が起こり、あたりは暗闇となって大雨を降らし、池の水が空に巻き昇って大蛇が姿を現した。%3